
はじめに
母が亡くなったあと、私が見つけたのは、毎日欠かさず綴られていた手帳でした。
数行の短い言葉の中に、母の“気持ち”や“想い”がにじんでいて、私は何度も涙をこらえながらページをめくりました。
認知症になっても、すべてがわからなくなるわけではない。
「伝えられないだけで、気づいていること」「嬉しかったこと、悲しかったこと」を母は日記の中に残してくれていました。
この手帳は、私にとってかけがえのない宝物となり、介護の在り方を改めて考えるきっかけにもなりました。
母は、若い頃から社交ダンスを楽しみ、ダンスパーティーや旅行の予定を手帳で管理していました。
その名残なのか、認知症が進行し始めてからも、毎日2〜3行ほどの記録をつけていました。
「今日は晴美がご飯を作ってくれた」
「恵ちゃんが敬老の日のプレゼントを持ってきてくれて嬉しかった」
そのような日々のささやかな出来事が、母の視点で丁寧に記されていたのです。
母の記録には、嬉しかった出来事と共に、ある日こんな言葉も残されていました。
「晴美に“何度も大きな声で言うの、疲れるわ”って言われた。がっかり。涙が出た。」
思い返してみると、私も疲れていて、つい声を荒げてしまった日があったのかもしれません。その言葉が、母をどれほど傷つけていたのか―手帳を読むまで、私は気づいていませんでした。
母の中にあった「嬉しい」「寂しい」「がっかりした」そんな感情が、言葉となって残されていたことに、胸が痛みました。
ある日、かかりつけの先生に「背中がボロボロしてるね」と言われた母は、その言葉がずっと気になっていたようで、
「背中ボロボロ、お風呂で綺麗に洗うこと」
という一文を、手帳に毎日記録していました。
私は、すでに身だしなみに無頓着になったのだと思っていたのですが、実は、ちゃんと気にしていたのです。
外からは見えなくても、母の中にはまだ“自分を整えたい気持ち”が残っていた―そんな当たり前のことを、私は忘れていました。
認知症になると、「もう何もわからなくなる」「気持ちも感じない」と思いがちですが、実際には、感情や自尊心、恥じらいや喜びといった“その人らしさ”は残っているのです。
ただ、それを言葉にしたり、表現したりする力が弱まっているだけ。
手帳の中の記録は、母の“心の声”であり、「私はまだここにいるよ」とそっと語りかけてくれているようでした。
近年、認知症のケアでは「パーソン・センタード・ケア」という考え方が重視されています。これは、その人の“自分らしさ”を尊重し、感情や想いを大切にするケアの姿勢です。
・自分らしさを保てること
・大切な人との結びつき
・何かに携われること
・共にある感覚
・安心してくつろげること
これらを支えることが、認知症の方にとっての“生きやすさ”につながります。
けれど、親子という近い関係だからこそ、見落としてしまいがちなことも多いのだと、母の手帳が教えてくれました。
母が残してくれた手帳は、介護中には見えなかった“本当の気持ち”に気づかせてくれるものでした。
それは、「もっと優しくできたかもしれない」「もっと想いを汲み取れたかもしれない」という後悔とともに、これからの誰かの介護を支える“道しるべ”にもなると信じています。
認知症になっても、その人の想いはちゃんと残っている。そのことを忘れず、寄り添うことの大切さを、母は手帳を通して教えてくれました。
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